大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第六弾

2021/06/02

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

今回は第五弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

遏羅闍補羅国から東南に山を下り川を渡っていき、七百余里で磔迦国に至ります。
ところでフィッシュビリヤニは魚介を使ったビリヤニです。川や海沿いの地方でよく食されます。魚料理に合うハーブ「ディル」や「コリアンダー」を使うのもフィッシュビリヤニの特徴です。

Author:Miansari66
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fish_Biryani.JPG

玄奘が次に訪れたのは闍爛達羅国でした。
ビリヤニで忘れてならないのがエビビリヤニ。エビの柔らかく繊細な香りを引き出しています。エビビリヤニは調理が早く、他の材料ように煩雑で長時間のマリネ処理をする必要がありません。

Author:Jyothis
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shrimp_Biriyani.JPG

玄奘が次に訪れたのは奢羯羅国(現在のシアールコート)。
紀元前327年、ギリシャの歴史書によるとこの地域はサガラと呼ばれており、アレクサンダー大王が広げたヘレニズムの東端でした。アケメネス朝時代には絹の名産地で、ガンダーラと並ぶ裕福な都市だったそうです。

Author:SaAd GhuMman
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sialkot_City_Way.jpg

那羅僧訶城の東方へ行き波羅奢の大林の中に入ると、玄奘は50人余りの盗賊に襲われました!
荷物を全て奪われ、皆殺しにされかけたのですが、仏弟子の一人が脱出路を見つけ、二人で逃げ出します。
それでも玄奘は「命があるだけでラッキー」と笑っていたそうです。

盗賊に襲われた後日、玄奘はタッカ国の東境の一大城に来ていました。
ここにはなんと、700歳にもなる一人のバラモンがいたそうです!
すごいですねー。当時で700歳ってことは、キリストと同じ時代に生きていたってことになります。
さすが天竺は違いますね!

Author:Anthere
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tamaris3.jpg

次に玄奘が訪れたのは至那僕底国。
現在の位置がよく分かりませんが、タッカから東に500余里進んでいるので、そろそろインドに入った頃かもしれません。
玄奘はここに14ヶ月も滞在して仏教の経典を学んでいます。よほど重要な地だったようですね。

Author:Zahidusman79
Sources: https://en.wikipedia.org/wiki/File:Jalala_Guddar_(_a_type_of_canal_)_in_KPK.JPG

次に訪れたのは闍爛達羅国(ジャーランダラ)。
ヨガの技法にジャーランダラバンダというものがあります。バンダとは体内エネルギーを調整して導くことであり、喉のバンダがジャーランダラバンダなのです。
玄奘が訪れたジャーランダラと関係があるのかは分かりません。

闍爛達羅国から険路をふみこえやってきたのは屈露多国。今でいうカングラのクルー地方です。

Author:Suman Wadhwa
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MONOLITHIC_ROCK_CUT_TEMPLES,_MASROOR.JPG

中国と国境を接するカシーミールの近くで、豪華な寺院や賑やかな市場で区切られた、比類のない美しさと芸術的遺産があります。

いよいよ現在のインド国内に入ってきました。

屈露多国から南方へ七百余里で設多図盧国にやってまいりました。
設多図盧国は現在のサルヒンドで、インドのパンジャブ州にある市です。
16~19世紀にインドを支配したムガル帝国時代には州都であり、インドの玄関口とみなされた重要な都市でした。

Author:Jasleen Kaur
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fatehgarh_Sahib_Gurdwara,_Punjab,_India.jpg

設多図盧国から西南へ八百余里進めば波理夜呾羅国です。
ここには有名なアショカ王の碑文が残っています。
アショカ王とは紀元前3世紀頃にインドを支配した王様です。当時、地方のマイナー宗教に過ぎなかった仏教をアショカ王が守護したことで、仏教は発展したのです。

Author:Ashokha
Sources: https://en.wikipedia.org/wiki/File:Ashoka_with_his_Queens_at_Sannati-Kanaganahalli_Stupa.jpg

波理夜呾羅国より東へ五百余里で玄奘は秣菟羅国(マトゥラー)に着きます。
マトゥラーは交通・経済の要所であり、古代王朝で首都だったこともあるほど重要な地で、ヒンドゥー教の7大聖地の1つにも数えられています。
古代インドでは美術・仏像の町といわれていました。

Author:Benjamín Preciado Centro de Estudios de Asia y África de El Colegio de México
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MATHURA11.jpg

秣菟羅国から東北方へ五百余里で、薩他泥湿伐羅(スターネーシャヴァラ)国に至ります。
スターネーシャヴァラは、玄奘が訪れた7世紀前半頃に北インドを支配していたヴァルダナ朝の出身です。
仏教に帰依していたハルシャ王は玄奘一行を手篤くもてなしたのでした。

Author:CNG Coins
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Harshavardhana_Circa_AD_606-647.jpg

薩他泥湿伐羅からさらに東方へ四百余里で窣禄勤那国(スルグナ)に至りました。
ここにある古代レンガ造りのチャネティ・ストゥーパ遺跡は、アショーカ王の統治下にあったモーリア時代にさかのぼります。
玄奘は多くの仏塔と仏教寺院を見学していったのでした。

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝