大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第二弾

2021/06/01

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

今回は第二弾ということで前回からの続きをご紹介させていただきます。

玄奘が最初に寄ったのは秦州でした。

Author:MarsmanRom
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Majishan_entire_hill_20090226.jpg

秦州には麦積山石窟という石窟群があり、7,200体を超える仏教彫刻と1000㎡超に及ぶ壁画がある名所で、玄奘もきっと観光したと思います。

Author:MarsmanRom
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Majishan_huge_sculptures_20090226.jpg

また、ここでは名物の蘭州拉麺が人気です。

Author:MarsmanRom
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lanzhou_Ramen.JPG

玄奘の苦難に満ちた旅はまだ始まったばかりです!

Author:MarsmanRom
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Majishan_angry_20090226.jpg

玄奘は秦州の次に蘭州に寄りました。
蘭州の街の真ん中には黄河が流れており、玄奘もここで黄河を渡ったと思われます。
古来、中国の人はここら辺りから西を“西域”と呼んでいました。
都からはるばる600km。玄奘の旅はいよいよ西域へと入っていきます。

玄奘が黄河沿いのルートを辿った場合、この炳霊寺に立ち寄ったはずです。

炳霊寺は黄河沿いの岩山に建てられたお寺で、大小700体ほどの仏像が彫られており、一番大きなものでは高さ27メートルもの弥勒像があります。

Author:Bernard Gagnon
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bingling_Temple_02.jpg

西へ旅する者は、ここで旅の安全を祈願したのでした。

玄奘が祁連山脈の北側のルートを辿った場合、黄土高原を通ったものと思われます。

Author:黄河山曲
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%BB%84%E5%9C%9F%E9%AB%98%E5%8E%9F_-_panoramio_(1).jpg

黄土高原は黄河の上流および中流域に広がる広大な高原で、日本に飛来する黄砂の主要発生地なのです。

Author:User:Vmenkov
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Daxia-River-Valley-panorama-5902%2B5903%2B5904%2B5905%2B5906.jpg

玄奘もさぞ砂ぼこりまみれになったのでしょうね。

Author:Till Niermann (User:Till.niermann)
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Loess_landscape_china.jpg

涼州では玄奘が役人に旅を阻まれたり、仏僧に手助けされるなどのドラマが起こります。

その昔、涼州は辺境の地だと思われていましたが、その実シルクロードの拠点として仏教文化の華開く砂漠のオアシスだったそうです。

Author:Hiroki Ogawa
Sources:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crescent_Moon_Spring_Yueyaquan_Mingshashan_Dunh[…]9%E5%B1%B1_%E6%9C%88%E7%89%99%E6%B3%89_-_panoramio_(2).jpg

詳しくは『敦煌』という映画を見てください。

Author:Hiroki Ogawa
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dunhuang_Mogao_Ku_2013.12.31_12-30-18.jpg

涼州の次に訪れたのは瓜州でした。
ここでアクシデント。旅の無理が祟ったのか、玄奘の愛馬が死んでしまいます。
さあ大変、馬がないと旅立てません。
足止めされている間にも追手はどんどん迫ってきます。
玄奘の運命やいかに!
この続きはお芝居で。

Author:Redpipe
Sources: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:%E6%A6%86%E6%9E%97%E7%AA%9F.jpg

ピンチに陥ってた玄奘でしたが、新しい馬と旅の仲間も見つかって瓜州を脱出します。その際に通ったのが玉門関でした。
玉門関というのはシルクロードの重要な関所の1つです。
紀元前108年から107年に長城の最西端に建造され、交通の要綱として栄えました。

Author:张骐
Sources: https://t.co/UMY8ifl9Ew?amp=1

瓜州を出た後は広大な砂漠です。
蜃気楼に惑わされたり、烽火台で狙撃されたりしながら進んだ玄奘でしたが、大事な水をこぼし、道に迷い、ついに馬共々力尽きてしまいました。

さて、玄奘はこのピンチをどう切り抜けたでしょうか?
答え:仏の力でなんとなく助かった。

伊吾までの砂漠は危険で広大です。
途中に五つの烽火台があり、その下で水を盗むしか水を得る方法はありません。もし見張りに見つかったら殺されてしまうでしょう。
死ぬ覚悟で砂漠を渡る玄奘でしたが、第一烽の人が意外といい人で、ナンと水をもらったのでした。

Author:OpenCage
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Naan_shiva.jpg

決死の砂漠旅を乗り越え、玄奘は遂に伊吾に辿り着きました。

Author:Matthew Summerton
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kumul,_Xinjiang,_China_-_panoramio_(25).jpg

ここで高昌王の使者に会ったことによりまた新たなドラマを生まれるのですが、それはともかく伊吾の特産品はハミウリ(哈密瓜)といいまして、甘みが強く、中国でも特にブランド性の高い瓜です。

Author:Muzzleflash
Sources: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Hami_train_station.jpg

ぜひご賞味あれ。

Author:en:User:Biggie6579
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Whole_melon.jpg

旅の途中、玄奘は高昌国に招かれます。
高昌王は玄奘に国に止まるよう懇願しますが、玄奘は旅に出ると言って聞きません。
「こんなに良くしてあげてるのに私の言うことが聞けないっていうの!」と引き止める高昌王に対し、玄奘はハンガーストライキで抵抗したのでした。

Author:Shizhao
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%AB%98%E6%98%8C%E5%8F%A4%E5%9F%8E.jpg

玄奘のハンストに根負けした高昌王は「私の負けよ。お願いだから何か食べて。でないと死んじゃう」と玄奘の出国を認めます。
玄奘は「帰りにまた寄って3年仏法を教えるから」と約束して次の阿耆尼国に行きました。
ちなみに帰ってきた頃には高昌国は滅んでいたそうです。

Author:Rolf Müller
Sources: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Mosque_yanqi_xinjiang.jpg

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝