大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第四弾

2021/06/01

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

今回は第四弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

颯秣建国から西へ三百余里で屈霜儞迦国に着きます。
ところで中央アジア料理の有名なマンティはご存じですか?マンティとは饅頭に似た料理で、香辛料で味をつけた肉、玉ねぎなどが、小麦粉を練って作った生地に詰まっています。
遊牧民との関連が深い料理なのです。

Author:Utilisateur:ru:User:Sover.spb
Sources: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Manti_in_a_steam_cooker.jpg

颯秣建国から西へ二百余里進むと今度は喝捍国です。
中央アジア料理といえばラグマンを忘れてはいけません。
小麦粉を練って作った麺に、牛のスープにトマトペーストを加えた汁で煮た羊肉、野菜、唐辛子などの具をかけ、食前に混ぜて食べます。
拉麺のルーツなのです。

Author:Армен Авакян
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%D0%9B%D0%B0%D0%B3%D0%BC%D0%B0%D0%BD.jpg

喝捍国から西へ四百里でやってきたのは捕喝国(ブラハ)。
玄奘はあっさり通りすぎてますが、ブラハは古代からサマルカンドと並ぶ中心都市であり、中央アジアにおける最も重要な都市のひとつです。
その歴史は古く、紀元前5世紀には城壁を持つ要塞都市が存在していました。

Author:Ipaat
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bukhara03.jpg

捕喝国から西へ百余里で戊地国に至ります。
ところで、ウズベキスタンの主食はナンですが、地方によって作り方が異なります。例えばサマルカンドでは小さく厚みのあるアビ・ナンが作られており、ブハラのナンはゴマなどの種を表面に散らしてあり香ばしい風味が特徴です。

Author:Otets
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lepjoschka.jpg

戊地国から西へ五百里で貨利習弥伽国に至ります。
現在でいうところのホラズム地方にあたり、古くからアムダリヤ川の豊富な水資源を利用した灌漑が行われ、高い農業生産力に支えられたオアシス都市が栄え、遊牧民の中継交易基地として経済的、文化的に進んだ地域でした。

Author:Doron
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:KonyeUrgenchMinaret.jpg

せっかく貨利習弥伽国まで来ましたが、玄奘はここから千五百里ほど引き返してサマルカンドまで戻り、そこから西南三百里進んだ羯霜那国に行きます。
道を間違えたのでしょうか?
羯霜那国は現在のシャフリサブスで、中央アジアの都市の中でも最古の歴史を持つ街です。

Author:Alaexis
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kok-Gumbaz.JPG

Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aq-Saray_Shahrisabz_2.JPG

Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dorussiadat.JPG

羯霜那国から西南へ二百里行くと山に入り、山道を三百里進むと鉄門に入りました。
鉄門とはバルフとサマルカンドの間の隘路です。かつて、この山で採れる豊富な鉄で補強された門があり、名前の由来になりました。門にはたくさんの鉄製の鈴がぶらさがっていたそうです。

Author:Truihanoulle
Sources: https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E9%96%80_(%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%3AWood_engraving%2C_p-503-_-From_'Nouvelle_G%C3%A9ographie_Universelle%2C_La_terre_et_les_hommes'%2C_Part_VI%2C_'L'Asie_Russe'%2C_%C3%89dition_%C3%89lis%C3%A9e_reclus%2C_Paris%2C_1881_2013-12-10_21-34.jpg

鉄門を無事に通過し、玄奘が次にやってきたのは覩貨羅国です。
ところで、西暦645年に覩貨羅人の男女6人が日本に漂着したという記録が日本書紀に残っています。
日本と西域はシルクロードで繋がっており、正倉院宝物の中にも関係をうかがわせる文物が残っているのです。

Author:Imperial Agency
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ROCHECHI_Screen_Panel_Shosoin_NH44.JPG

次に来たのは活国。
ここの王は高昌王の妹の婿なのですが、王妃は既に死亡。王は若い王妃を妻に娶るも、若い王妃は王の長男に頼まれ王を毒殺!長男は若い王妃を自分の妻にし、幼い王子の座を奪って王位につくというハムレットばりのドロドロのドラマが繰り広げられます。

Author:Sgt. Kimberly Lamb
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:120627-A-LE308-009.jpg

活国の次に向かったのは縛喝国。
玄奘の旅もアフガニスタンに入ってきました。
縛喝国は現在のバルフに当たります。
古代より交易路の要所として発展してきましたが、長い歴史の中で幾度も戦乱に巻き込まれてきた不幸な街でもあります。

Author:bluuurgh
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:15c_green_mosque.jpg

玄奘は縛喝国の次に鋭秣陁・胡寔健の両国を訪れました。
アフガニスタンの代表料理といえばボラニです。練った小麦粉の生地の中にジャガイモ、レンズマメ、カボチャ、チャイブ、リーキ等の様々な種類の野菜を詰め、焼くか揚げてからヨーグルトを添えて食べます。

Author:arnold | inuyaki
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bolani_Afghan_bread_01.jpg

次に向かったのは掲職国です。
アフガニスタン料理ではカバブも人気です。
牛挽肉とみじん切りの玉ねぎ、にんじん、にんにく、コリアンダー・小麦粉・卵・コリアンダー・クミン・ジンジャーなどのスパイスを入れて混ぜ、丸めて油で揚げます。
メンチカツに似てます。

Author:Executioner
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kufta_Kebab.jpg

次に訪れたのは梵衍那国。そう、タリバンに破壊されたことでも有名な大仏のあったバーミヤンです。
古来より東洋と中東の十字路として栄え、文化的景観と古代遺跡群と自然の景観の美しさはアフガニスタン観光の目玉!
玄奘も大仏を見てしっかり観光していったのでした。

Author:Tsui/Liberal Freemason
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Taller_Buddha_of_Bamiyan_before_and_after_destruction.jpg

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝