大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第五弾

2021/06/01

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

今回は第五弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

梵衍那国から道に迷いつつも辿り着いたのは迦畢試国。

迦畢試国は農産物が豊かで、名馬を産出し、諸国の物産が集まる国際的な交易都市でした。

周囲10余里の都城があり、大乗仏教が盛んで100余の伽藍と6000余人の僧侶が居たと記録にあります。

Author:US Embassy Kabul Afghanistan
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aerial_view_of_Charikar_in_Parwan_Province_near_Panjshir.jpg

迦畢試国から東進六百余里、玄奘が次に訪れたのは濫波国です。

濫波国は現在のラグマーン州でして、かつてはインドからパルミラに通じる交易路の中継地でした。

ソ連のアフガニスタン侵攻とその後の内戦で、多くの家屋や社会資本が破壊された悲しい歴史を持ちます。

Author:U.S. Air Force photo by Staff Sgt. Samuel Morse/Released
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stark_contrasts_in_Afghanistan_-_080907-F-0168M-071.jpg

次に訪れたのは那掲羅曷国。

地図上ではアフガニスタンですが、玄奘は北インドと記しており、仏陀が立ち寄ったとされる場所や、仏の影が見れるという洞窟など、仏陀に由来する地をたくさん見て回りました。

オタクが聖地巡礼するのと同じ感覚だったのかもしれませんね。

Author:FazelFazly
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jalalabad2007.JPG

那掲羅曷国を後にして、次は健馱邏国(ガンダーラ)に入りました。

ガンダーラは、もともと現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけて存在した古代王国です。

ゴダイゴの歌によると、そこに行ったらどんな夢も叶う愛の国だとか。
https://www.youtube.com/embed/GF1p97DaA1I

玄奘が次に赴いたのは烏仗那国。

ここはその昔、アショカ王の苑だったそうです。

アショカ王というのは、地方の一宗教に過ぎなかった仏教を庇護し、仏教が発展するよう力を注いだ王なのです。

現在、仏教が世界宗教になれたのはアショカ王のおかげと言っていいでしょう。

Author:Imranrashid26
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sunset_over_the_Mingora_City,_Swat_Valley,_Pakistan.jpg

烏仗那国の王は瞢掲釐城におり、そこは人口も物資も豊かな町とあります。

瞢掲釐城は現在のミンゴラにあたり、紀元前から中国との交易も行われていた歴史ある都市です。

紀元前にはアレキサンダー大王が攻めてきて、そのまま住み着いたギリシャ人たちの末裔も多いとか。

Author:Imranrashid26
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stars_on_the_Earth.jpg

玄奘の旅もパキスタンに入り、スワート川の上流アパラーラ龍泉にやってきました。

なんでもその昔、釈尊がここでアパラーラ龍を退治したとか。…ドラ〇ンクエスト?

ここは古代ガンダーラ王国の下で初期仏教の主要な中心地であり、仏教の文化的影響が強く残っています。

Author:Designer429
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:River_Swat_Pakistan_3.jpg

インダス河を渡って玄奘が次に訪れたのは呾叉始羅国。

その昔、如来が菩薩だったとき、チャンドラプラバという大国の王となり、菩提を志して頭を千回捨てたという伝説が残っています。

古くからインドの仏教の中心の役割を果たしてきた神聖な地域なのです。

Author: not stated
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Taxila1.jpg

呾叉始羅国から東南方へ七百余里行くと僧訶補羅国があるとのことです。

しかし玄奘は僧訶補羅国には行ってません。じゃあなぜ書いてあるのか…

呾叉始羅国から東南方へ二百余里ゆくと大石門があり、マハーサットヴァ王子が飢えた虎に我が身を食べさせた伝説があります。

Author:Hollingsworth, John and Karen, retouched by Zwoenitzer
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panthera_tigris_tigris.jpg

次に訪れたのは烏剌尸国。現在のハザラ地方に当たります。

ハザーラ人は、中央アジアのアフガニスタンを中心に居住するイラン系民族です。イスラム教シーア派の信者が多いのですが、アフガニスタンはイスラム教スンナ派が多いため迫害を受け、虐殺された歴史もあります。

Author:USACE Afghanistan Engineer District-South
Sources: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A9%E4%BA%BA

烏剌叉国より東方に千余里で迦湿弥羅国に至りました。

今でいうカシミールで、インド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域です。標高8000m級のカラコルム山脈があり、パキスタンとの国境には世界第2の高峰K2がそびえます。たぶん玄奘は登ってません。

Author:Kogo
Sources: https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:K2_8611.jpg

迦湿弥羅国には2年ほど滞在し、玄奘は半笯蹉国に向かいました。

ところでパキスタン料理で有名なのはシンディービリヤニです。ビリヤニとはインド亜大陸の混ぜご飯で、スパイスと米、肉、魚、卵や野菜などから作られ、シンディービリヤニはヨーグルトなどが入ってます。

Author:Miansari66
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sindhi_Biryani.JPG

半笯蹉国から東南に四百余里で遏羅闍補羅国に至ります。

ビリヤニには多くの種類があり、メモニビリヤニもその一つです。シンディビリヤニと似ており、羊肉、ヨーグルト、玉ねぎ、ジャガイモ、トマトなどが入ってますが、シンディビリヤニに比べトマト分量が控えめです。

Author:Miansari66
Sources: https://t.co/GIuyZl0QNz?amp=1

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝