大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第七弾

2021/06/11

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

第六弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0601/

今回は第六弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

窣禄勤那国の東にはガンジス河が流れています。
ガンジス河の水の味は甘く、細沙が混じっていると言われています。俗書によるとこれを福水といい、この中で沐浴すると罪障が除かれるとか。
玄奘は河の東岸に渡って秣底補羅(マテイプ)国へ到着したのでした。

窣禄勤那国から北方に三百余里で婆羅呼摩補羅国(現在のガルワール)に至ります。
かつてここにはガルワール王国が存在していました。
9世紀に建国され、幾多の戦乱を生き抜いてきましたが、ネパールに制圧され、イギリス従属となり、最後にはインドに併合されたのです。

Author:Atarax42
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yamunotri_temple_and_ashram.jpg

婆羅呼摩補羅国から東南へ四百余里で次は堊醯掣呾羅国に着きます。
デリー東方にパンチャーラ地方があるのですが、ここら辺りに存在していたと言われています。
かつてここにはパンチャーラ国という古代インドの十六大国のうちのひとつの国が存在していたとか。

Author:CNG Coins
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panchalas_of_Adhichhatra.jpg

堊醯掣呾羅国から南へ二百余里、ガンジス河を渡って西南方へ行くと毗羅刪拏国(現在のアタランジ・ケラ)に着きます。
この都市はラジャベンによって作られました。ベン王はカナウジの侵攻時にムハンマド・ゴリを破りますが、結局ゴリはベン王を破って町を破壊したのです。

毗羅刪拏国から東に二百余里で劫比他国(現在のサンキサ)に至ります。
行った人によると「ここは古くには釈迦の一大聖地として大いに栄えたが、今は地図にもない。寺院と学校があるだけで一軒の茶屋もなく、時折野生の孔雀が舞い降りるひなびた農村である」だそうです。

Author:J. Homany
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Elephant_capital_Sankasya.jpg

劫比他国から西北に二百余里で羯若鞠闍国に至ります。
現在のカナウジに当たり、古代から中世にかけて繁栄した北インドの古都だったそうです。
玄奘が訪れた際、国の周囲は四千里あり、城内には伽藍が百余もあり、僧は1万人もいて、大乗・小乗を学んでいたとか。

Author:Nature lusty vikash
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Goddess_Annapurna_Temple_,tirwa_town,stateUttar_Pradesh.jpg

羯若鞠闍国から東南方へ六百余里、ガンジス河を渡って阿踰陀国に至りました。
現在のファテープル地方ですね。
ここにはたった14年で放棄された幻の都「ファテープル・シークリー」があります。ヒンドゥーとイスラームの建築様式が融合した珍しい世界遺産なのです。

Author:Marcin Białek
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fatehput_Sikiri_Buland_Darwaza_gate_2010.jpg

阿踰陀国から阿耶穆佉国に行く途中、玄奘は賊に捕まってしまいます。
賊はドゥルガー神に仕える者達で、毎年ハンサム男を生贄にして神に捧げるのがならわしでした。ハンサム玄奘も殺されかけますが、唐から仏教を学びに来た偉い人だと判明し、賊は改心してくれたのです。

Author:Raebareli Area
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Arial_View_of_MCF.jpg

阿耶穆佉国から東南方に七百余里進み、鉢邏耶伽国(プラヤーガ)に着きました。
現在のイラーハーバードで、プラヤーガとは「犠牲を捧げる地」という意味です。
ここにアショカ王の石柱があり、人はここで死ぬと天に生まれ変わると信じて自ら命を断つと記されています。

Author:Dananuj
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Allahabad_Montage_II_Dec_2014.jpg

鉢邏耶伽国から西南に五百里ほど行くと憍賞弥国(カウシャーンビー)に至ります。
ここはインド古代十六大国のひとつヴァツサ国の首都でした。
仏陀が訪れたウダヤナ王の時代、カウシャーンビーは交通の要地で商業が発達しており、仏教にとって重要な地でもありました。

Author:PHGCOM
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:KausambiCastCopperCoin1stCenturyBCEInscribedKosabi.jpg

憍賞弥国から東方へ五百余里で鞞索迦国に至ります。
ここには伽藍が二十余箇所あり、僧が三千人ほどいて、小乗正量部を学んでいたそうです。
その昔、釈尊がこのそばで六年間説法をしたと伝えられています。釈尊が捨てた楊枝が、根を張り繁茂して立派な木になったとか。

Author:आशीष भटनागर at hi.wikipedia
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ayodhya_city.jpg

鞞索迦国から東北へ五百余里で室羅伐悉底国に至りました。
ここは釈尊がいた時代にコーサラ国の首都でした。昔スダッタという富豪がいて、釈尊のために寺院を建てました。これが祇園精舎です。
元は伽藍があったそうですが、玄奘が訪れた時にはすっかり崩れていたとか。

Author:myself
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jetavana.jpg 

室羅伐悉底国から東南へ八百余里で劫比羅伐窣堵国(カピラヴァストゥ)に至りいます。ここは、釈尊の出身地です。
釈尊はカピラヴァストゥの王子でした。幼いころから何不自由のない暮らしを送っていましたが、29歳のときに地位も妻子も全て捨てて旅立ったのです。

Author:
Bottom part: Claude&Masako
Top part: Biswarup Ganguly
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Procession_of_king_Suddhodana_from_Kapilavastu_in_full_Sanchi_Stupa_1_Eastern_Gateway.jpg

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝