大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第九弾

2021/06/10

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

第六弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0601/

第七弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0604/

第八弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0607/

今回は第九弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

瞻波国にはいろんな言い伝えが残っています。
昔、一人の牛飼いが牛を追って岩の穴を抜けると、見たこともない不思議な場所に出ました。忠告に逆らい、なっていた果樹を食べると、体が大きくなって出れなくなってしまったのです。
玄奘は羯朱嗢祇羅国へと向かいました。

羯朱嗢祇羅国から東方へ600余里行くと、奔那伐弾那国(現ラジシャヒ)へ辿り着きました。
インドを出てバングラディシュです!
バングラデシュ西部地域の政治、経済、文化、交通の中心地であり、ここの絹製品は他のイスラム文化圏においても高い評判を得ています。


奔那伐弾那国から東南へ行くこと900余里で羯羅拏蘇伐剌那国(カルナスヴァルナ)です。
ここには伽藍が10余箇所あり、僧侶が300余人いて、小乗正量部の方を学び、ここの人はヨーグルトを食べない、と玄奘は書き残しています。
ヨーグルトがきらいだったのでしょうか?

Author:Sakib
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rangamati1.jpg

羯羅拏蘇伐剌那国の次にやってきたのは三摩怛吒(サマタタ)国。
玄奘の時代は仏教国でしたが、13世紀のイスラム教侵攻以後、この地における仏教は急速に衰退し、大多数の仏教徒が改宗を余儀なくされました。
現在では東パキスタンの流れを汲むイスラム教国です

Author:Shahidul Hasan Roman
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Comilla_City_(4)-01.jpg

三摩怛吒国より西方へ900余里いくと躭摩栗底(タームラリプティ)国です。
現在でいう西ベンガルのタムルークで、古来ベンガル湾海上交易の重要な中継基地として活躍し、西方にも名が知られていました。

Author:DeepanjanGhosh
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kolkata_skyline_at_night.jpg

躭摩栗底国より西南へ進んで、次に訪れたのは烏荼(ウダ)国。現在のオリッサ州にあたります。
古代、この地域にカリンガ国が栄えていましたが、マウリヤ朝のアショーカ王によって征服されてしまいました。おかげで数多くの仏教建造仏が今でも残されています。

Author:No machine-readable author provided. Soman assumed (based on copyright claims).
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Puri072.jpg

烏荼国より西南方へ1200余里行くと恭御陀国(コーンゴーダ)に至ります。現在のガンジャム県辺りです。
ガンジャムは中世の東ガンガ朝の一部でした。
ジャウガダにアショカ王の碑文が残されていることから、マウリア朝においてはアショカ王の支配地域だったようです。

Author:Someswar Dora
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gopalpur_port,Brahmapur,Ganjam,Odisha_3.jpg

恭御陀国からさらに西南へ1400~1500余里ほど行くと、羯稜伽国(カリンガ)にに着きます。
かつてカリンガ国はマガダ国と覇権を巡って争う大国でしたが、アショーカ王に征服され、マウリヤ朝に服属します。しかし、後に再び独立し、チェーティ朝が成立しました。

Author:Yedla70
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hyderabad_Financial_district,India.jpg

羯稜伽国から西北に1800余里で、南憍薩羅国(コーサラー)に着きました。
最近の調査で、6世紀に逆上る彫刻や仏陀像が南憍薩羅国の都城であったシルプールの地中から発見され、注目を集めています。これらの遺物は、玄奘の大唐西域記の内容と一致しているのです。

南憍薩羅国より南方にある大きなジャングルを東南方へ900余里いくと、案達羅国(アンドラ)に至ります。
現在のペーダヴェギー付近であり、ここは、東チャールキヤ朝、またはチャルキヤ朝があった場所でもあります。これらの王朝は7世紀から約500年間も続きました。

Author:IM3847
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pedavegi_Village_board.jpg

案達羅国から南行すること1000余里で馱那羯磔迦国(ダーニャカタカ)に至ります。
都城の東に東山僧院、西に西山僧院という伽藍があって、昔は千人の僧がそこで修行していたそうですが、玄奘が訪ねたときは廃墟となり、修行者はいなかったそうです。

Author:IM3847
Sources: https://en.wikipedia.org/wiki/File:Ananta_Padmanabha_Swami_Temple.jpg

馱那羯磔迦国から西行1000余里で珠利耶国(チョールヤ)です。
かつて9世紀から13世紀にかけて南インドを支配したチョーラ朝がありました。
チョーラ朝は優れた寺院建築を残したものの、じわじわと衰え、最後にはパーンディヤ朝の軍に敗北して滅亡したのです。

Author:Calvinkrishy~commonswiki
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gangaikonda_CholaPuram.JPG

珠利耶国から南方へ1500~1600余里進むと達羅毗荼国(ドラヴィダ)です。
ドラヴィダ語族の言語を母語として使用する民族をドラヴィタ人と呼びます。ドラヴィダ人は南インド四州やその他の国に居住しており、インダス文明もドラヴィダ人によるものだとされているのです。

Author:Mahinthan So
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E0%AE%AA%E0%AE%BE%E0%AE%9A%E0%AE%AE%E0%AF%8D.jpg

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝