大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第十弾

2021/06/15

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

第六弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0601/

第七弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0604/

第八弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0607/

第九弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0610/

今回は第十弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。


次に訪れたのは秣羅矩吒国(マラクタ)。インド半島南端部の国です。
「この国は海岸沿いにあり、異宝が豊かである。」と玄奘は記しています。異宝が何なのか分かりませんが、白檀香樹や栴檀儞婆樹、カルプーラ香樹など、香木に関する記述が多く見られるようです。

Author:User Nataraja on fr.wikipedia
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gopuram-madurai.jpg

達羅毗荼国から船旅3日でセイロン島の僧伽羅国(シンハラ)に行くことができます。現在のスリランカですね。
19世紀のイギリス統治下で導入された茶の栽培は、高品質を維持して親しまれており、セイロン島で採れる茶で作った紅茶のことをセイロンティーと言います。

Author:Ji-Elle
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sri_Lanka-Province_du_Centre-Plantations_de_th%C3%A9_(5).jpg

僧伽羅国には様々な伝説が残っています。
あるとき娘が隣の国に嫁入りしようとしたところ、ライオンに会い、連れ去られてしまいました。
娘はライオンの子を産み、その子は成長して父を殺してしまうのです。
次に玄奘は恭建那補羅国(コーンカナプラ)へ向かいました。

Author:Bourgeois
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sri_Pada.JPG

恭建那補羅国の次に向かったのは摩訶剌侘国(マハラッタ)。
王は軍事を好み、兵馬の制がととのった強い国だったようです。
この国の将軍が敵に負けた場合、刑罰は与えられません。
その代わりに女物の服をもらって女装し、恥ずかしくて多くは自殺してしいまうのです。

Author:Pratheepps
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kailasha_temple_at_ellora.JPG

摩訶剌侘国から西北へいくこと千余里、ナルマダー河を渡って跋禄羯呫婆国(バルカッチャパ)に着きます。
ここは古来、西方諸国との貿易港として著名な土地で、内陸アジアの主要都市から東方諸国の珍貨がこの港に集まり、エジプト、ローマなどに送られていきました。

Author:choose to remain anonymous
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ponk_sellers.jpg

次に訪れたのは摩臘婆国(マーラヴァ)。
現在でいうアフマダーバード付近でして、マハトマ・ガンディーが修道場を設けた地です。1930年に行われた塩の行進の出発点でもありまして、ガンディーの様々な活動と結びついており、街にはガンディー博物館が建てられています。

Author:Arjuncm3
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ahmedabad_montage_new1.png

摩臘婆国の次に訪れたのは阿吒釐国(アタリ)。
玄奘は「この国には胡椒の木がある。その樹葉は蜀の胡椒に似ている。また薫陸香樹があり、その樹葉は中国の梨に似ている。」と記しています。どうやらホームシックになっていたようですね。

Author:Mukund (Maku)
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kandla_Port.jpg

阿吒釐国から西北へ3日ばかり行くと契吒国(カッチャ)です。
実は、この前後の玄奘の行程は明確に記されておらず、確かなことが分かっていません。カティアワル半島辺りであろうと推測されています。
ここにはカッチ湾があり、その周辺部は古くから交通の要衝でした。

契吒国の次に訪れたのは伐臘毗国(ヴァラビ)。
ヴァラビは、インド西部のグジャラート州にある古代都市です。ヴァッラビプラとしても知られ、スリヤヴァンシマイトラカ王朝の首都でもありました。
如来がまだ生きていた頃、よくこの国で遊んでいたと伝わっています。

伐臘毗国から西北へ行くこと700余里で阿難陀補羅国(アーナンダプラ)に至りました。現在のヴァドガナルであるとされています。
とても強い国だったのでしょうか。古代の碑文や資料によると、昔から周辺の国から土地を奪って大きくなってきた歴史があるようです。

Author:Purvang.d
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vadnagar%27s_Kirti_Toran_full_shot_with_beautiful_clouds.JPG

阿難陀補羅国から西北500余里で蘇剌他国(スラーシュトラ)に至ります。現在のスーラトで、カティアワル半島南部の港湾都市です。
古くからローマなどの西方諸国と交易して発達した都市でしたが、17世紀後半にマラーター王国による攻撃を受けて以降衰退していきました。

Author:Rahulogy at en.wikipedia
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:GauravPath1.jpg


蘇剌他国から東北に1800余里いけば瞿折羅国(グルジャラ)です。現在のグジャラート州にあたります。
この地方は、古来から西アジアとの重要な交易地であって、インダス文明の港湾都市とされるロータルや近年発見されたドーラヴィーラなどが栄えました。

Author:Bhaumik J
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gujarat_Montage.jpg

次に辿り着いたのは鄔闍衍那国(ウッジャイニー)。現在のウッジャインで、 ヒンドゥー教の聖地です。
伝説によれば、かつて紀元前にインド全体を治めたヴィクラマーディティヤ王はこの地の王であったとされています。ただし史実とは考えられていません。

Author:NehalDaveND
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vikramaditya_(king).jpg

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝