大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第十一弾

2021/06/16

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致します。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

第六弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0601/

第七弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0604/

第八弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0607/

第九弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0610/

第十弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0613/

今回は第十一弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

鄔闍衍那国より東北へ千余里いくと擲枳陀国に入ります。
インドには様々なカレーがありますが、サーグはホウレンソウやカラシの葉など青菜、およびそのような葉菜を用いたカレー料理です。
ローティーやナンといったパンと共に食され、香辛料などが加えられます。

Author:Quadell
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Saag_Paneer.jpg

擲枳陀国から東北に900余里で摩醯湿伐羅補羅国(マヘーシヴァラプラ)に至りました。現在のグワーリヤルであるとされています。
伝説によると、かつて地方の首長が病気になった時、隠者のグワリパが彼を治したことから、感謝のしるしとしてこの都市が建設されました。

Author:Adityajoardar9
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gwalior_groups.JPG

阿点婆翅羅国から西方へ2000余里いき、狼掲羅国(ランガラ)へと至りました。
西パキスタンのマクランと比定されます。マクランはオマーン湾の海岸沿いのイランまで続く半砂漠の沿岸地帯にあり、玄奘も大海を眺めながら進んだのでした。

Author:michael clarke stuff
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pakistan,_Central_Makran_Range_01_(2294354578).jpg

狼掲羅国から西北方に行くと、波剌斯国(パールサ)に至るといいます。別名ペルシャ。伝聞の話ですので足を踏み入れてはいないようですが、玄奘はイランの手前まで来ていたようですね。
中東の国は、玄奘の目にどのように映っていたのでしょうか。

Author:Benutzer:The 194.231.230.60
Sources:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:BAM_IR2726.JPG

波剌斯国の西北は払懍国(フルム)に接している。玄奘はそのように聞いています。
払懍国とは、イラン語族がシリア、パレスチナをさす言葉です。7世紀頃はイスラム勢力が勃興し、イスラム圏に組み入れられた時期でした。玄奘はイスラム教と出会っていたのでしょうか?

Author:Memorino
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Citadel_of_Aleppo.jpg

払懍国の西南の海島に、西女国があると玄奘は聞いています。
西女国の人々はなんと全員女性で、男性がいないそうなのです。払懍国の王は、毎年男を派遣して結婚させているのだとか。
玄奘も記録の中でこの国について2度言及しており、興味を持っていたようです。

狼掲羅国から北東にゆくこと700余里で臂多勢羅国(パーターシラ)に至ります。現在のハイデラバードにあたります。香水の都として知られ、「街の街路が香水で毎日洗い清められた」という伝承にちなみ、パキスタン建国以前には「インドのパリ」とも称されました。

Author:Saqib Qayyum
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pakka_Qila_view3.JPG

臂多勢羅国から東北に行くこと三百余里で阿輿荼国(アヴァンダ)です。
ここはかつて釈尊がもろもろの僧に靴をはくことを許した土地だとか。そこから南方にある林は、釈尊が泊まった時に夜寒くて3枚重ね着をしたので、翌日もろもろの僧に重ね着を許した土地だそうです。


次の国は信度国(シンドウ)。
紀元前3千年頃にインダス文明が始まりましたが、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャに征服され、紀元前4世紀にギリシャ系セレウコス朝に支配された後、マウリヤ朝、クシャン朝など次々支配された土地です。玄奘が来た時はラーイ朝でした。

Author:M.Imran
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mohenjodaro_Sindh.jpeg

信度国からさらに東へ九百余里ゆくと茂羅三部盧国(モーラサンブル)に着きます。現在のムルターンです。
南アジアの中でも最古の都市のひとつであり、考古学調査から、モヘンジョ・ダロあるいはハラッパーなどと同時期に興った都市の1つであると考えられています。

Author:Own work
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ghanta_Ghar_Multan_complete_view.jpg

茂羅三部盧国から東北へゆくこと七百余里で鉢伐多国(パルバタ)に至りました。
ところで、パキスタンでよく食べられる朝食にハチャプリがあります。チーズ入りのパンでして、元はジョージア国に伝わるグルジア料理で、一般的にスルグニと呼ばれるチーズを使います。

Author:ლევან ქოქიაშვილი
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Adjarian_khachapuri_in_an_oven.png

インドで有名人になった玄奘は、クラーマ王に呼ばれます。
「来なきゃ像軍で寺を踏み壊すわよ」という熱烈なラブコールに負けカーマルーパ国に赴くのですが、ハルシャヴァルダナ王が「私が先に呼んだのに、なんでクラーマの所へ行っちゃうのよ!」と怒り出してもう大変。

Author:Rituraj Bhuyan
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Guwahati_citysky.jpg

インドで勉強を続けた玄奘でしたが、とうとう帰国することになります。
プラヤーガ国→コーシャンビー国→ヴィラシャーナ国→ジャーランダラ国→シムハプラ国→タクシャシラー国→ウジャーナ国→ランパカ国と来た道を辿り、そこから伐剌拏国(ヴァラナ)へ行きました。

Author:Isruma
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lake_Swatvalley_x100.JPG

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝