大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第十二弾

2021/06/23

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致しました。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

第六弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0601/

第七弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0604/

第八弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0607/

第九弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0610/

第十弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0613/

第十一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0616/

今回は第十二弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

伐剌拏国から西北に進むと、阿薄健国(アバカン)です。
パンジャーブ地方に伝わるインド料理の一種にチキンティッカがあります。
ヨーグルトと香辛料に漬け込んだ鶏肉を、タンドールと呼ばれる窯で焼いたものです。鶏肉は一般的に骨のついていないものを使います。

Author:kspoddar
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tandoorimumbai.jpg

次に訪れたのが漕矩吒国(ジャーグダ)です。その名は香辛料のサフランを意味します。
玄奘は「人の性質は軽率で心は詭詐が多い。学芸を好み、技術は多能である。聡敏だが道理には暗く、日ごとに数万語を誦する」と記録しています。
パリピが多かったのでしょうか。

Author:Uncle Carl
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crocus_sativus_sahuran.jpg

次に訪れたのは弗栗恃薩儻那国(ヴリジスターナ)。アフガニスタンの首都であるカーブルであるとされています。
山岳地帯にある盆地に位置し、標高約は1800m。大都市の立地としては異例の高さです。
3000年以上の歴史を持ち、古くから"文明の十字路"と呼ばれました。

Author:James Solly
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Section_of_Kabul_in_October_2011.jpg

弗栗恃薩儻那国を出てカピシー国を通り、安呾羅縛国(アンタラーヴァ)に入りました。
古くはアケメネス朝のダレイオス1世のベヒストゥン碑文に記され、ゾロアスター教の中心地でもあり、ペルシア人やサカ人や様々な王朝によって支配されたりと、歴史的な領域です。

安呾羅縛国より西北に四百余里ほど行くと闊悉多国(コーシタ)です。
ソビエト・アフガニスタン戦争中、ここは8年以上にも渡って包囲されていました。ソビエト軍による侵攻の直後、アフガニスタンのゲリラは陸路を押さえ、ソビエトの前進を事実上阻止したのでした。

闊悉多国から西北に山を三百余里進むと活国です。
玄奘が再びこの国を訪れたのは、「帰りに必ず立ち寄って三年留まり、国民に仏教を教えるから」と約束していた高昌国に寄るためだったのですが、その高昌国が唐に滅ぼされていたという悲しいニュースを聞いたのでした。

Author:Bryan Hong (Brybry26)
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:ImamSahib.jpg

活国から二日間東行すると瞢揵国(ムンカン)に至りました。フェルガナ盆地の中に位置し、ウズベキスタン最東部にあるハナバード付近です。
続いて名前が出てくる阿利尼国、曷邏胡国、訖栗瑟摩国、鉢利曷国などの国は、アム川右岸の交通路を仄示したのかもしれません。

瞢揵国から東方に山道を三百余里進むと呬摩呾羅国(ヒマラタ)という、ヒンドゥクシュ山脈の北端近くにある国に至りました。
ヒンドゥクシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味します。この山脈の厳しい気候と地形から、多くの人間が遭難死してきたため付いた名です。

Author:koldo hormaza from madrid, españa
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mountains_of_Afghanistan.jpg

呬摩呾羅国から東行二百余里で鉢鐸創那国(バダクシャーン)に至りました。
バダクシャーンは周辺を高い山々に囲まれた高原地帯です。訪れた旅行家・探検家はこの土地の快適な気候を書きとめ、ムガル帝国の創始者バーブルは著書でその美しい自然を賞賛しました。

Author:Benpaarmann
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Wakhan_Corridor.jpg

鉢鐸創那国から東南へ山道二百余里で淫薄健国(インヴァカン)につきました。現在のヤムガーンです。
古代のインダス文明は、貴金属や木材をメソポタミア文明に輸出していました。その際に通る街道沿いにはラピスラズリの鉱山があり、重要な輸出品の1つだったのです。

淫薄健国から東南に険路をゆくこと三百余里で屈浪拏国(クラナ)に至ります。
現在のコクチャ川上流のクラン川流域にあったとされる国です。この辺りはアンジュマン峠を経て、ワハン地方からカピシー国への捷路なので、唐代には時々利用されていたと記録が残っています。

Author:Adilswati
Sources: https://en.wikipedia.org/wiki/File:River_flow_in_khyber_pakhtunkhwa.JPG

屈浪拏国より東北方へ五百余里で達摩悉鉄帝国(ダルマスティティ)に至りました。
玄奘の記録では「風俗は礼儀を知らず、性狂暴で、形も醜悪であり、眼は碧緑色の人が多く、他の諸国と異なっている」と書かれています。よほど嫌なことがあったのかもしれません。

達摩悉鉄帝国から大山を越えて北方に行くと尸棄尼国(シグニ)に着きます。現在はシグナーンと呼ばれています。
古代、この地域はルビー鉱山で知られていました。マルコ ポーロも著書で「人々は地下に大きな洞窟を掘って、貴重で上質なルビーを探す」と紹介しています。

Author:navillot from CHAROLLES, France
Sources:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lac_Karakul_(754379539).jpg

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝