大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートまとめ 第十三弾

2021年6月に、転回社の最新作『大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』を公演致しました。
7世紀に中国からはるばるインドまで渡り、膨大な経典を持ち帰った玄奘の物語です。
しかしながら、16年にも及ぶ玄奘の旅はあまりにも長く、残念ながらその行程全てをご紹介することはできません。また、今回の作品は玄奘の旅をそのまま描写するものでもありません。
せめて、少しでもその果てしない旅路に想いを馳せていただけたらと思い、studio in.K. のTwitterでは、玄奘が立ち寄った国を順にご紹介させていただいております。

studio in.K.Twitterのアカウントは以下の通りです。
Twitter: @studioink_info

この紀行ツイートまとめでは、これまでTwitterでご紹介させていただいた文をまとめて記事にしてみました。

前回までの旅の様子はこちら↓

第一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0515/

第二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0520/

第三弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0523/

第四弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0526/

第五弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0529/

第六弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0601/

第七弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0604/

第八弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0607/

第九弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0610/

第十弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0613/

第十一弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0616/

第十二弾
https://ink.tenkai.org/tipitaca0619/

今回は第十三弾ということで、前回からの続きをご紹介させていただきます。

次に訪れたのは商弥国(シャミ)。現在のチトラル付近です。
カイバル・パクトゥンクワ州の都市で、ヒンドゥークシュ山脈の最高峰であるティリチミールの麓にあります。
現在はイスラム教中心ですが、昔は仏教が信仰されており、関連の遺物が今でも発見されています。

商弥国の東方に川があり、その河谷の南山の外に鉢露羅国(バローラ)があります。現在のバルチスタンです。
ここは、新石器時代のメヘルガル遺跡が知られています。バルチスタンはインダス文明を担ったとされるバルーチ人やブラフイ人が住んでいました。

Author:Waqas Usman
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Quetta_Railway_Station_-_40311.jpg

鉢露羅国のある東方にゆくと、朅槃陀国(カッパンダ)へ至ります。現在のタシュクルガンです。
タシュクルガンは、「石の砦」又は「石の塔」を意味します。その名の通り、崑崙山脈・カラコルム山脈・ヒンドゥークシ山脈・天山山脈に囲まれた、まさしく石の国なのです。

Author:Acstar
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shi_Tou_Cheng.JPG

朅槃陀国から東北へ進んでいる途中で玄奘一行は山賊に襲われました。
商人たちは逃げまどい、インドからついてきた像が、追われて水に溺れ、死んでしまったのです。可哀そうに。
玄奘は悲しみを振り払って険路を進み、烏鎩国(ウサ)へ至ったのでした。

Author:Jayanand Govindaraj
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:IndianElephant.jpg

烏鎩国から北行すること五百余里で佉沙国(カシュガル)に着きました。
カシュガルは新疆ウイグル自治区カシュガル地区に位置するオアシス都市です。
かつては疏勒(そろく)とも呼ばれ、漢代から唐代にかけてシルクロード交易の要所として栄えました。

Author:Own work
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kashgar_Id_Kah_Moschee.jpg

佉沙国より東南方に五百余里で斫句迦国(チャクカ)に至ります。
この国の南にある山には岩窟があり、インドで悟りを開いた僧がよく住んでいるとか。
そういえば玄奘はインドまで行って経典を持ち帰るという偉業を成し遂げましたが、悟りの方は開いたのでしょうか?

Author:Eric Feng
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%8F%B6%E5%9F%8E%E5%9B%BD%E9%99%85%E5%A4%A7%E5%B7%B4%E6%89%8E.jpg

斫句迦国から東行すること八百余里で瞿薩旦那国(クスタナ)に至りました。現在のホータンです。
ここでは王自らやってきて出迎え、玄奘は歓待を受けました。
先日溺死してしまった象の代わりに十分な数の馬と人夫を与えられ、万全の体制で唐を目指したのです。

瞿薩旦那国から東方へ三百余里で媲摩城(へいま、現在のウズン・タティ)に着きます。
ここにはコーシャンビー国のウダヤナ王が造ったとされる、二丈もの高さで白檀が刻まれた仏像があります。病気などで体が痛むとき、像の同じ患部に金箔を貼ると病が癒えたとか。

Author:Aurel Stein
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ancient_Khotan_BLER2_AKV1_FP246_FIG30.jpg

媲摩城から東方へ砂磧に入ってゆくこと二百余里で尼壌城(ニヤ)に着きます。
新疆ウイグル自治区ニヤ県でして、かつてここにはチャドータという国が繁栄していました。4世紀頃に滅びてしまったので玄奘が知る由はありませんが、痕跡くらいは見たのかもしれません。

Author:Vic Swift
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Niya_BLP494_PHOTO1235_3_138.jpg

玄奘は沙州に戻ってきました。不法出国していたはずですが幸い罰せられることもなく、盛大な歓待を受けたのです。こうして17年にも及ぶ旅は終わりを告げたのでした。
この後玄奘は大慈恩寺に入り、残りの人生を持ち帰った経典の翻訳に費やすのですが、それはまた別の話。

Author:Maros M r a z
Sources: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Giant_Wild_Goose_Pagoda,_Xi%27an,_China_-_006.jpg

第十三弾を持ちまして大唐大慈恩寺玄奘三蔵法師伝 紀行ツイートは終了いたします。
ご愛読ありがとうございました。(完)

-大慈恩寺玄奘三蔵法師伝